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dr411 トリポッド 三本足の巨人
僕の読書体験は小学生時代に端を発するといってもよいかもしれない。最後の学年では、何かに憑かれたかのように毎日1冊の本を借り、たとえ斜めにしか読むことができなくても、どんなに眠くても、とにかくその本を読み終え、そしてまた翌日、次の本を借りるということをくりかえした。その中には、子供向けに翻案されたERBのペルシダーもあったし、火星シリーズもあった。トリフィドもいたし、イドの怪物ケアールもいた。中学生になっては、その影響で東京創元社の火星シリーズを読み、EEスミスのレンズマンにはまった。そういう意味では、SF者としての僕を産んでくれたのが小学校の図書館だとすると、育んでくれたのは東京創元社であった。日本人の作家にもたびたび浮気をしたが、一番すきなのは翻訳物で、中には主人公の名前がカタカナなのがいけないなんていう意見もきくにはきいたが、そんなのは慣れの問題であって、そもそも翻訳物は面白いものだけをセレクトして翻訳しているんだから日本の作家のものよりも面白いのは道理であろう、と嘯いていた。

そんな原体験をつんだ小学生のころに、悔しかったことがひとつある。科学雑誌などで有名なさる出版社よりシリーズとして出されていた3部作の物語のうちの最後の1冊が、僕の小学校の卒業に間に合わなかったのだ。大型書店など近くになかったから、卒業以降も、本屋でそのシリーズを見かけたことはなかった。限られた小遣いで、本を注文して買うなどという贅沢は思いもつかなかったけれど、ほんのわずかな希望はのこしていた。ジュブナイルに翻案された火星が東京創元社の文庫からでているならば、あれもなにかの翻案に違いない。海外もののSFを扱うところといえば、当時、ハヤカワと東京創元社くらいしか思いつかなかったからそのカタログを本屋で手にいれ、次に買って読むべき本を吟味する。たしか、そう、作者の名前がクリストファーだったはず。僕は、うろ覚えながらクリストファーという名前の入ったそれらしい本は無いかと目を凝らした。クリストファー・プリースト、スペースマシン。当時の僕は勝ち誇った笑みを浮かべていただろう。ウェルズへのオマージュでかかれたというこの文庫の表紙は、加藤直之の手によって宇宙戦争の火星人を思わせる形状の機械が描かれている。きっとこれに違いない。だが、はじめの確信は読み進めるうちにくずれさった。これはこれで面白いのだが、あれとは違う。あれはいったいどこにあるのだろうか。

三本足の大きな機械が支配する未来世界、思考を制御するための金属製のメッシュのキャップをかぶることが成人の儀式である。成人とともに主体としての自分、自分としての思考を失うことを是とする社会に疑問を抱いた主人公は、いわれたまま大人になることを拒絶し、機械の支配の及ばない自由の国にむけて脱出をはかることになる。なにかにつけ、そんなことは大人になれば好きなだけできるのだから、と言われて、大人の感覚とは違う今の見方で感じることは、今しかできないと感じていた僕にとって、大人になればわかる、キャップをかぶってみれば違った見方ができるようになる、そういわれても納得のできなかった主人公に大いに共鳴していたはずだ。もうひとつ覚えている内容に、未来に設定されたその小説の中で、すでに文明が失われていることを示すエピソードがある。旅の途中で仲間になったある少年が眼鏡をかけていたことに、主人公は愕然とするのだ。その世界では、眼鏡などという奇妙なものは存在していない。近視の人がいないのではなく、それを眼鏡で補正しようなどという考え方は、とうに失われた技術だったのだ。その眼鏡の少年は、「正常な」ひとびとの間に出入りしようとするときには、疑われないために眼鏡をはずさなければならないのだ。

覚えているのはそんなところで、美化して言ってしまえば失われた初恋のような焦燥感と胸の痛みとともに、もう再開することは無いものだろうとあきらめかけていた。長く生きていればよいこともめぐってくる。常に新しいものが生産されているとは言いながら、消費者たちも常に入れ替わる。新しく生まれた読者は、彼らにとっては初めてのその物語をまったく新しいものと認識するのだろう。平積みにされ、彼らの購買意欲をそそるためには新刊でなければならないという事情もあるだろう。古きものが、訳を新たにし、表紙のイラストを変え、果てに出版社を変え、完全版、新装版、なにかにつけ何度も装いだけを新しくしながら流通にのってくるという仕組みを知るようになった。ほのかな期待があったといえば嘘になる。すっかり忘れてしまっていた昨年末、ハヤカワの文庫新刊案内をみて、もしかしてこれは、と思った。ジョン・クリストファー、トリポッド。オリジナルの3部作に先立つ前日譚をあわせ、全4巻としてだされるという。先日、その2冊目を、すなわち3部作の1冊目を入手して読んだ。残る2冊もつづいて文庫化されるらしい。ああ、これでずっとお預けになっていた結末を読むことができる。卒業後何年もたった同窓会で初恋の人に行き会って思わず幻滅するなんて話もあるけれど、誤解をおそれずにあえて言おう。何度も繰り返し世に問われるものは、そもそも面白いものだけをセレクトしているんだから、新しく書かれたものよりも面白いのは道理であろう。
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by shinakaji | 2005-01-24 00:35 | review
dr402 巨大魚と中古のライオン達

「ウォルター少年と、夏の休日(Secondhand Lions)」(以下ライオン)の映画は見ていないのだが、ノベライズ(竹書房)を読んだ。口絵の映画のシーンからとられた写真をみて感じたことは、ハリーポッターと開かずの鞄(←間違っている)を映画で見たときの感想にも似ているのだが、主人公役のオスメント少年が大きくなったなあ、というものだ。子役はいつしか大きくなって大人になる。けれど描かれた少年は、あいも変わらずすぐにも泣き出しそうで繊細だ。どうも僕の固定観念かもしれないのだが、オスメント少年には、シックスセンスにしろA.I.にしろ、眉を顰めて泣くのをこらえているような表情のイメージがある。

さて、ウォルター少年が母親につれられて、それまで存在すら知らなかったような伯父たちのところにあずけられるところからこの話ははじまる。彼にとっての母親である前に奔放に一人の女としてしか生きられない母親は、けして憎むべき性格ではないのだが、人の親としては向いていないのだろう。父親もなくそんな母親に育てられたからなのか、小さいころから転居をくりかえしてきて親友もいない彼にとって、この世に本当に大切なものは何もない。本をよみ、想像をして毎日をすごす、リアルを感じさせない少年だ。彼にとって母親は頼るべき相手でありながら頼りきることのできない諦観の対象でしかない。そんな彼が、飾り気のないちょっと風変わりな伯父たちとすごす中で、彼にとって大切なものが何であるかを見出していく物語だ。

読んだ直後に、僕は「ビッグフィッシュ」を思い出していた。ビッグフィッシュでは主人公の父、ライオンではウォルター少年にとっては父親代わりともいえる伯父たちは、ともにちょっと信じがたいほどの冒険をしてきたのだと告げ、最後のクライマックスでは、彼らの死後、その話が真実であったことを匂わせて話が終了するからだ。ビッグフィッシュの主人公は、話術の巧みな父親の「ほら話」が本当にあったことだとは思っていないが、あるきっかけで父親の話の中の真実はなにかということを探しにいく。父親のほら話を辿る映像は美しく、この映画の見所のひとつでもある。父親は死に際し、主人公の手の助けによって巨大な魚となり川の流れの中へ帰り、主人公が父親の人生をほら話も含めて受け入れたことを象徴するのだが、最後の父親の葬式の場面で、弔問客であるシャム双生児であったはずの女性が実はそれぞれ別の身体を持つ二人の美女だったことを映し出し、すべては嘘では無かったことを示唆する。ライオンではそのような手の込んだ描写は無い(これはノベライズだからかもしれない)。莫大な財産をもち、金の匂にひかれて近寄ってくる者たちを避けるうちに、まるで人嫌いなように振舞う癖のついた伯父たちは、過去に強盗をはたらいたのだとさえ噂されるのだが、ウォルター少年の打算のない姿に彼らもやがて打ち解けてゆく。一方、少年にとって、母親さえもが彼に嘘を告げるのだから、嘘などたいしたことではなかったのかもしれない。伯父たちの話す獅子奮迅の冒険譚に「信じたいことを信じればいい」と言われ、本当かどうかの判断がつかないまま彼らをまるごと受け入れる。そして映画(というよりノベライズ)にも描かれていない数年も含めて、彼にとってのリアルな生活が始まるのだ。

このノベライズを読みながらストーリーとは関係の無いところで、僕は「エイリアン」も思い出していた。まだ映画を自由に見にゆくような小遣いさえ持たなかったころであったが、映画のノベライズとしてはじめて読んだのがこの「エイリアン」である。ギーガーのデザインに負うところも大きかったのだと思うが、この映画は興行的にも成功し、いくつかの続編を生んだのであるが、そのうちの1作が、同時期に公開されたターミネーター2とエンドシーンが似ていることでも話題になったのである。けして模倣したわけではないはずなのに、結果としてはその色や形が似てしまうことがある。そんな普遍性という共通点に思いが及んだためであろう。

(2004.07.24)
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by shinakaji | 2004-07-25 02:18 | review