カテゴリ:fiction( 9 )
dr410 雪の花
風の通り道に雪の花は咲く。ゆうべに降り積もった白い雪は、日中も氷点を越えない寒さの中、風に昇華した水分が雪の上を通り抜けるとき、そこに氷の結晶を生じさせる。あたかも顕微鏡で覗いたような氷の薄片は、小指の爪ほどの大きさに育っていて、午後の太陽の光をうけて見る角度ごとにきらきらと光を返す。しゃがみ込むとこんもりとしたその一角では、胸元をふくらます仔すずめのように、ふっくらとした羽毛のような薄片が雪の中から無数につきだしているのが目に入る。フリースの手袋を外して、それを手の中にとり、息を吹きかけると、あっけないほど儚く、羨ましいほどに頓着もなく融けてしまった。なにがしかの冷たい水分が手のひらを少し濡らしただけ。

一面の白く塗り込められた世界の中で、黒一色を纏った私の姿は重く沈んで見えただろう。実際、私の心も軽いものとは言えなかった。なにも覚悟がなかったわけでもない。それは何ヶ月も前から決まっていたことでもある。それはこっそりと私にうち明けられた、とっておきの秘密。眠っていると思って医者が漏らしたことば。私の反応が見たかったのかもしれないし、ただ単に驚かしたかったのかもしれない。でも、本当はどうすれば良かったのか。甘えるのが好きだった彼奴は、私に代わりに嘆いて欲しかったのかもしれない。答えを彼からきくには手遅れだ。それに、私には私なりのこたえかたしかできない。どうせその医者の言葉を拾わなくても、気付いていたはずだという思いもある。春がきて夏がきて、秋があり冬が来る。ひとつの季節が巡ってしまうように、私達だって多かれ少なかれ限られた時間をすごしている。自分に責任を持つということは、そんなことも含めて自分のことをきちんと知ることだ。彼奴はそういったことがある。きっと彼奴はその通りにして、あっけなく、羨ましいほど頓着もなく融けてしまったのだろう。

なにがしかの冷たい水分に濡れた手のひらをみつめ、それから私は腰をあげた。目線の高さがかわるごとに、風の通り道に咲いた雪の花がきらきらと光る。今できることをしろ、彼奴に言った言葉を今度は私自身にいうべきだろう。手のひらを頬で拭き、若干の冷たさを感じて、それから私は歩き始める。少し冷たい風が私を追い越すように吹き抜け、そうして雪の花をわずかずつ成長させる。
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by shinakaji | 2005-01-21 21:18 | fiction
dr408 檸檬
向日葵の花弁のように濃厚な色の檸檬をもらった。それはちょうど僕の両手の指が重なるようにあわせてつくることのできるお椀のくぼみにぴったりとおさまるほどの大きさで、僕の手の熱のせいか、清涼な香りを立ち上らせている。色はオレンジのようであっても、その紡錘形のかたちといい、その匂いといい、たしかにそれは檸檬であることを主張している。稀に見るほどの美しさで、掌に感じる重さと冷たさが心地よく、しばらく僕はそれに目を奪われていた。

「みごとなもんだろう。果物屋の店先でこれをみつけたとたん、これを買おうと思ったんだ。最近ずっと部屋からでていないときいていたから、太陽を一杯に吸いこんだ檸檬なら、きっと喜んでもらえるだろうと思ったのだけど。」

自分には無いものを美しいと思うのならば、そのたっぷりとした檸檬の生命力がまぶしかった。値段にしたらほんのわずかなものだろう、唯ひとつの檸檬は、それを選びとった者の気遣いとともにあって、その価値を何倍にも高め、僕の存在を圧倒していた。初恋の味は檸檬の味とも云うが、その初恋の味を僕は知らない。けれど、きっとそれはこの匂いのように胸騒がしく、この匂いのように羨ましいものなのだろう。小さな子供がミルクばかりを飲んで乳臭い匂いを漂わせているように、僕は桃の香りを纏いたいと思ったことがある。ひととき、わがままを言って、毎日桃ばかりを食べたのだけれど、いつのまにか飽いてしまって、その計画は流れてしまったものだ。

「どう、気に入った。」

悪戯っぽく笑った顔を僕は言葉なく見返して、また両手の中の檸檬に目を吸い寄せられるのに任せた。たしかに僕はこれを気に入って、言葉ではなく、その匂いを嗅ぐことでそれを表そうとした。きっとそれもうまく通じたのだろう。

「なら、よかった。今日は忙しいからもう帰るけど、また来るからな。」

そう言って檸檬の主は帰っていった。

主を失った檸檬はまだその色を失わず、窓の外の太陽にむかってかざしてみたけれど、昏い影になるどころかコロナをまとい余計鮮やかに輝いた。明日は少し無理をしてでも外へ出てみようか。ついそんな気にさえさせられてしまう。唯一つの檸檬と比べてさえ存在の重さという点で勝ることのできない僕は、窓の外に遊ぶ小鳥に、せんのない想像をする。どうせ軽いのならば、空が飛べるといい。だが、翼を失った小鳥と、本体を失って翼しか残っていない小鳥と、果たしてどちらが幸せなのだろう。翼だけしか残らなくても、羽ばたくことが小鳥の使命ならば、誇りたかいまま死ぬことが許されたのはどちらだったろう。

少し疲れたのでやすむことにして、枕もとの読みかけの本の上にその明るい色をした果物をおいて、目を閉じた。そして一眠りして目を覚ますと、もういつのまにか夕方で、窓からの夕陽が檸檬に吸い込まれていくところであった。匂いを嗅ぎたかったけれど、手にとることがなんだか今は勿体ないような気がして、本の上に伸びた長い影を、僕はそっとなぞって、斜めにさす光にもやのように立ちのぼっているはずの匂いを、蝶のように指先で味わおうとした。

それから部屋にノックがあって、ドクターの回診の時間だった。

「こんなところに爆弾をおいちゃだめですよ」

僕が彼の冗談をわかったのを見てとって、彼は僕に共犯者の笑みで笑いかけた。一緒についてきていた若い看護婦が、なにか問いたげな視線をドクターにむけていたけれど、僕はそれには気がつかないふりをして、彼に笑い返した。
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by shinakaji | 2004-09-19 22:59 | fiction
dr400
気付いたときに、貴方が枕元の椅子に座っていた。顔をみたら笑っていたので、
少し安心することができる。今日は外の天気がいいから湿気が少なくてすごし
やすいね、と貴方がいう。エアコンをかけていたら、そんなことわからない、
と僕が口を尖らせ、そうだったね、と貴方は苦笑する。水滴のつく程きーんと
冷えたオンザロックのグラスを考えながら、僕はひとつ質問をしてみた。

ねえ、この世の中で、一番透明なものって何だと思う?

… なぞなぞあそびか。そうだなあ、空気でどうだ。

ふうん、なんだかありきたりだな。つまらない。

… つまらんと言われてもなあ。正解ってあるのか。

いいや、ない。貴方が思う一番透明なものってなにか、教えてほしい。

… じゃ、オレの心。

たしかにそうなんだろう。自信に満ちた彼にとっては、未来は洋々と拓けてい
て、すこぶる見通しの良いものなのだろう。もしかしたら、だからこそ彼は輝
いて見えるのかもしれない。そういえば、未来に疑問を感じたりしないだろう
子ども達も、いきいきと輝いて見える。

貴方って子供だね。

… わるかったな、ガキで。

いや、誉めてるんだけどな。

… そうかい、それはありがとう。

ガラスの破片のように、時に透明なものは、僕の心に受け止めるには鋭利すぎ
ることがある。それは内包しているものたちを、容赦なく外にさらけ出してい
る。棲む魚を隠す淀みも時には必要なのに。ただ純粋であるよりも、琥珀だっ
て、小さな生き物を閉じこめている方が価値がある。悠久の昔からの植物の血
液の化石。溢れでた樹液に足をとられたとき、その小さな生き物たちは何を感
じてもがいたのだろう。焦り。絶望。その宝石の中に僕たちは誇らしいまでの
恒久の時の流れを感じ取り、焦り、羨望する。

話したいことがある。

… いったい、なんだ。

貴方は僕が黙っていると、ただ笑ってそこに居てくれる。話しかけたときには
返事を返してくれる。本当にそこに居てほしいときの、100回に1回くらい
はそこに居てくれる。だから、それから、僕はとっておきの秘密をひとつ、貴
方にうちあける。

… ふうん、そうなんだ。

それだけ?

… まあね、だって他に言いようがない。

もっと何か言って欲しい。

… 今までと同じように、今できることを今やる、それだけだよ。

ねえ、タバコをちょうだい。

… オレからはやれん。自分で買ってこい。

僕がタバコを買いに行けないのを、ちかくの自販機には僕の好きな銘柄を置い
ていないのを、貴方はちゃんと知っているのだ。

(2004.07.01)
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by shinakaji | 2004-07-22 00:12 | fiction
dr399
空を一番近くに感じたのは、自分がとてもつまらないものに感じていた時でも
あった。あとで周囲をさわがせることになったのでもあったが、その時にはそ
んなことに構う余裕もなく、ただ、高みを目指して登りたかった。乗り越えよ
うと思えば物理的には簡単に越えられたであろうフェンス越しに、地上の光は
ただ遠く、聞こえてくるのはただフェンスの隙間を抜けていく風の音ばかりで、
かなり気温も低かったはずなのに、不思議と寒さは感じなかった。


そこそこの都会であるはずなのに、地上の灯りが案外少なかったのは、先頃の
不景気の所為だろうか。昼間ならば見えるはずの桜の列が、暗い列として見え
ていた。今宵も脇を通ってきたあの疏水沿いではもう少したてば蛍がでるはず
で、馬鹿なカップルどもが我が物顔で闊歩するのだろうということに思いあた
ると、なんだかそれまで悩んでいたのが馬鹿らしく感じて、僕は服が汚れるの
もかまわず、空を見上げて寝ころんだのだった。

背中に冷たいものを感じながら、そして、そこにあるのが植物の茂みであるに
しろ、人間により作られたフェンスであるにしろ、自分の目の高さよりも上に
モノがあるだけで、自分はいま大地の上に居るという安心感がある。今でも何
故泪がでそうになったのかは判らないが、誰が見ていなくても同じように光っ
ているはずの、とりたてて存在を主張してくるでもない星を見て、その静けさ
に圧倒されていた。


空気の薄い山の上から夜空を見上げたことのある者でなければ、天の川が何故
に河であるのか判らないのではないか。未だ学生にもならず、生徒だった頃に、
大人たちに率いられて夏山に登ったことがある。雪渓を越えていくそれなりに
本格的なコースだった。もうすぐ下山という日に自然に湧出している温泉の近
くの山小屋に泊まり、無邪気にも夜遅くまで湯の中で満天の空を見上げてすご
した。それは輝かしいほどの光の量であり、未来ある僕たちを祝福していた。
非常食にと缶詰を持って登ってその重さに辟易していた友人は、朝方まで湯に
浸かっていて湯当たりを起こし、翌日の下山路ではへろへろだったのだが。


山といっても、その時に比べれば大した高さではない。昼間はサンダル履きで
も登れるハイキングコースにもなっている。しばらく夜空を見上げ、かろうじ
て名前のわかる星座をみつけたりしているのにも飽き、周囲に人気の無いのを
確認して、虚空に向かって大声をあげてみた。何を叫んだのか、今となっては
覚えてもいないが、だんだんと大人の事情というものに縛られはじめていて、
かと言ってさほど権限もない、学生という不安定な時期特有の焦りだったのだ
ろう。しばらく吼え続けるうちに疲れてきて、ようやく落ち着いたような気が
して、僕は山をおりることにした。空はもう白けはじめており、早朝の散歩な
のか道の脇にあるお地蔵さんに手を合わせているお年寄りにであった時には、
たとえようもない気恥ずかしさを覚え、少し足早に通り過ぎたのだった。


地は遠くにあり、空には近づいたはずなのに、やはり遠いままである。そして
同じように侘びしく光を放っている。地上と空と、そのどちらからも拒絶され
て、その疎外感が気持ち良かった。その事により、遠いはずの空に近づいたよ
うな気がして、少し嬉しくなった。いつかよりも少ないけれど、数えるには多
すぎる星をながめ、そして、あの時と同じように空が白けてくるころ、気恥ず
かしさを覚えながら高みより今度は地を目指したのだ。


僕の今いる施設では、垣にどうだんつつじが植えられている。秋の紅葉が好き
だという人も居るが、僕は春先の花のシーズンが好きだ。終わりではなく始ま
りの象徴だから。ひとつづつでは目立つ程でもないが、夜目にも白く小さなベ
ル型の花は、誰に媚びるでもなく、下を向いて咲いている。ずっと白一色の小
さな花が、秋に刈り込まれたドームの形に集まって春の星空を為している。漢
字で書くと満天星。僕はもはや地上にしばりつけられているからと言って絶望
はしないつもりだ。結局、太陽の助けを借りずに光っている星だって孤独なん
だし、手の届く地上にも星はあることを知ったのだから。

(2004.06.20)
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by shinakaji | 2004-07-22 00:11 | fiction
dr398
梅雨の合間のある晴れた日。昨日は薄いシャツだけでは少々肌寒かったから、
と羽織った半袖の上着が鬱陶しいほどの気候で、それは夕方になっても大して
変わりもしなかった。僕が普段すごしている個室は、ずうっと長い廊下に面し
ている。たまにナースが通る以外はあまり人の声の聞こえてこない部屋で、ど
うせ遠くにいけるわけでもなし、たまに廊下にでたりするくらいの自由はある。

背中に枕を押しあてて、いつもと同じように本をめくったり、それに疲れると、
栞も使わずに読みかけのページを下に枕元に逆さまに伏せて、ちょっとうとう
としたり、相変わらず変わり映えのしない部屋の中を眺めたり、定時の巡回を
待ったり、そんなことをして時間を過ごしていた。だから、貴方にとってはき
っと些細なことかも知れない小さなことが、僕にとってかけがえなく思えるこ
ともある。

入り口のドア、これは白に近いクリーム色に塗られていて、僕の顔くらいの高
さのところに、手を一杯にひろげた時の小指の先から親指の先までの丁度2倍
くらいの長さの正方形の磨りガラスがはめ込んである。そろそろ夕方になると、
建物の外の雰囲気が変わるから、なんとなく分かるのだけれど、そういった時
間帯だった。僕はいつもとはちがう雰囲気に惹かれてドアを開けはなった。

廊下に面したドアの向こうにあったのは、長い長い影。廊下のつきあたりの西
側の窓から夕日が差し込んでいたのだ。空はもともと青い色をしているのに、
朱色の夕焼けが重なると、さて何色になるでしょう。小さいころに習った単純
な足し算だ。青と赤をまぜると紫になります。紫色が好きな子供は情緒に問題
がありますか。単純な赤や青が好きでなくてはいけないのですか。

廊下のつきあたりの、開けることのできない冷たい窓ガラスにおでこを押しつ
けて、手の届かない空を掴み取りたいと思った。こんな綺麗な空を僕だけのも
のにして、好きなときにこっそり眺めたい。造花ではなく本物の花だけが持つ
のと同じようなきめ細かさを逃してしまいたくなくて、やがて空の色が薄暗く
なってくるまで、しばらくおでこをガラスに押しつけたままにした。まだ十分
に視界は届くのに、窓の下の駐車場では、緑色の水銀灯が光を放ち始めていた。

翌朝、頼み込んで駐車場までの短い散歩をした。昨日の名残がなにかみつから
ないかと思ったのに。水銀灯の下に落ちていた大水青も、昨日の空を見たのだ
ろうか。朝の空はすっかり新鮮で、昨日の気配など残ってもいなかった。

(2004.06.15)
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by shinakaji | 2004-07-22 00:10 | fiction
dr397
半熟の玉子の黄味のように粘度の高いとろりとした空気の中でゆらゆらと揺れ
ている夢を見ていた。まぶたを透かしてくる光は、太陽の金に細い血管がまと
わりついたような色をしていて、血を送り出すポンプの脈動にあわせて膨張と
収縮をくり返し、波は満ちては引いて、細い管の中の浮き輪のような形の小さ
な粒を押し流し、運んでくる。

聞き慣れた声が、ブレーキとともにかたんと揺れて停まった自動車の助手席の
目を覚ました僕の貌を覗き込んで、よう寝てたね、あんまり気持ち良さそうだ
ったから起こせなかったよ、と言って笑った。いやあ、ごめんごめん、最近ち
ょっと疲れ気味だったのかもね、僕の声が答えている。とりあえず外へでよう
か、せっかく来たんだし。そうだね、天気も良いことだし。

自動車を停めた空き地の近くの道路を渡ったところよりそれは見えた。遠くか
らも霞むほどに染め付けられた黄色の雲海。ずっと一面に菜の花を植えた畑。
少しばかり興奮して黄色の海の汀まで土手を駆け下り嘆息する。へえ、すごい
ねえ、口をついてでてくるのは平凡な言葉ばかり。きれいだねえ、耳に入って
くるのも聞き慣れた声ばかり。


ぴんと張られた鋼線をはじいてできる定常波のように、丈のある花は、わずか
な風にも揺られて揺れて、そうして波面をつくりだす。音のないざわつきが右
を向き、左を向き、光の金が波の表面で泡だつ。かつ消え、かつ結びて、久し
くとどまりたる例なし。反射されてしまうのか、溶け込んだのか、光は目に黄
色く眩しいばかりだ。

ふと風向きがかわると、波はこちらに向けて一斉に押し寄せてくる。海に溺れ
てしまいそうな錯覚をおぼえ、わずかに僕は身構える。風に運ばれてきた、か
つてこんなにも濃密に感じたことのない花粉の香りに、僕の抵抗は何の力を持
つだろう。いつの間にか眩惑されて、花を渡る紋白蝶になり、月を巡る大水青
になる。光に向かって一定の角度で飛翔しているつもりが、青白い水銀灯の周
りをぐるぐると廻りつづけ、地球に向かって永遠に無重力の自由落下を続ける
人工衛星となり、海を渡ろうとして花の香の束縛から逃れられなくなって、離
れては連れ戻され、飛び立っては舞い降りる。

海面につきささる光を踏み台にして空を目指す。眼下に広がる一面の波を見下
ろしながら、脆くも薄い翅脈を風にのせる。花粉の香りが上昇気流に混ざって
いるあいだは、それにのって昇ってゆける。やがて空気さえ希薄になり、黄色
の雲海も霞んでしまうにつれて、束縛も弱くなるかと思えども、やはりそれは
そこに厳然として存在し、その庇護の下を離れんとすることを許さない。だか
らまた、仕方なく、花の海に溺れてしまうことを承知で、むせ返る花粉の香り
に溺れるために落ちていく。


そろそろ帰ろうか。聞き慣れた声が聞こえてくる。もうちょっとだけいいかな。
じゃあと少しだけ。風も冷えてきたからね、先に自動車に戻っているよ。
置いて行かれてしまわないように、ちょっと小走りで追いかけながら、僕は、
最後にもう一度、ずっと一面に菜の花を植えた畑をふり返ったのだ。

(2004.05.26)
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by shinakaji | 2004-07-22 00:09 | fiction
dr396
はじまりに声は無く、ただ音の響きのみが存在していた。

湯が高みより鼕鼕と滝壺に流れこみ、湯気を巻き上げて辺りの風景を白けさせ
ている。ひらけた方角を見るに、遠くまで靄の広がっており、さらにその向こ
うには、萌葱を帯びた山肌の隠され、立ち上りながら岩の貼りつき、昏い雲へ
と連なっている。

どうどうと音す水の流れによりて、周囲の空気の震わされ、それにつれて昏い
雲も、一部厚くなり一部薄くなりを繰り返し、幢幢とゆらめいて、空気の振動
はその周波数を増し、やがて可聴音となりて空間を満たす。それは吽の音であ
り、同時に阿の音であった。

子音を伴わぬ音は、上方の雲と響きあって、圧縮され開放されて粗密波をなし、
ひとえ、ふたえ、とえ、はたえとその密度を増すと、やがて水音をも凌駕する。

湯壺の中でその様子を見上げ、呼応するかのように呼気に響きが重ねられ、唸
りをなし、体内と体外の境界を消し去るに、雲の昏さと相まって、閉塞された
唸りは強暴に出口を求め、口蓋を押し上げんとする。やがて上唇が破れると、
有声両唇鼻音を為し、周囲に満ちた阿音とあわせ、一つの単語を醸し出す。

あめ。それは天である。立ち上る山肌より昏い雲を集めてそこにあった。
あめ。それは雨である。集められた昏い雲は、凝縮され、水の粒をつくりだし、
自らの重さに堪えかねて地へ還らんとする。
淵に棲む河童か、あるいは木立に遊ぶ烏天狗か、童子の声が言の葉を告げる。
あめがふってきたよ。あめが。あめが。あめが。あめ。あめ。あめ。あめ。

昏い雲のすっかり落ちてしまうと、明るくなった空が残されていた。

(2004.05.07)
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by shinakaji | 2004-07-22 00:07 | fiction
dr395
4月29日

未だ若い展いたばかりの山桜の葉を一枚毟り取って翳してみる。花にしろ若葉
にしろ透過光で見るのが一番美しいと思う。細いけれど聢りとした脈が柔らか
な色の中で太陽の力を借りて幽かに輝いている。歩を止めて見入っていると後
方より葉擦れの音が届いた。足下の弛んだ地面も雛霰のように萌え膨らんだ枝
も須くは緩衝材として働いて此の世の音を吸い取ってしまうと思われたのに。

嗚呼、初夏の日射しだ。全ての良き物は太陽の方を向いていると言ったのは誰
だったろう。永い冬の時間も迂闊にやり過ごすだけではなく、着実に準備を重
ね、時が来ると蕾は弛み新芽は爆発的に展く。花の一つ一つ、蕊の一本一本、
若葉の一枚一枚に至るまでが決して同じでは無いのに、一つ一本一枚に至るま
で決して手の抜かれたるはなく、それぞれの場所に堂々といる。

この風に色があれば屹度柔らかい薄い桃色の線で表されるだろう。葉擦れの音
に色があれば屹度水色に光っているだろう。初夏の馨に色があれば絵の中に檸
檬のように活き活きとした黄色に塗り込めるのに。こんな日は全てが優しく貴
方の為にあり、全ての美しい物は貴方に属している。

桜の葉の特有の馨は塩漬けにして初めて生じるものだときく。掌に摘んだ若い
葉に貌を近づけてみても矢張り青臭いだけで桜餅の馨はしてこない。悪戯心か
ら山葵と同じ様に細胞に傷をつけて見たら薫ってくるだろうかと考えて葉の中
心あたりを千代紙から五芒星を切り抜く時の如く折り重ねていく。然うして少
しばかり強く揉んでから展くと、青い中に桜と言うよりは河原撫子の様な紋様
が灼然として顕れている。軈て乾いた葉は仄かに薫っている気もする。

何となしに愛おしくて何一つとして無駄の無い事に嬉しくて、その葉をポケッ
トの文庫本の間に挟み込むと、前を向いて木漏れ日の間をまた歩み出した。


(2004.04.30)
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by shinakaji | 2004-07-22 00:07 | fiction
dr394
4月1日、Poisson d'avril。お魚の日

 グランド・ピアノの周りに朱に塗った板をめぐらせてカウンターに仕立てた、
ときけば趣味が良いと思うだろうか。その天板の上にはむしりとられた赤いバ
ラの花びらにスプレーで滴の演出がされていて、鱗のおおきな魚とともに壁に
おおきく描かれた半裸の女性と同じように肉感的なシャンソン嬢が、少しはず
れた調子でうたっている。日本語のリズムがメロディラインとそぐわないのは
きっとご愛敬。ひとつ曲がおわるたびに僕はお愛想で手をたたく。奥からは合
コンらしき学生たちの一気呑みの囃し声と拍手が聞こえてくるけれど、慣れた
様子で気にもとめていない。シャンソン嬢というより、店のマダアムとでも呼
ぶべきか。鯰のように大きな口でにっと笑う。
 これじゃゆっくり話もできないし場所を変えようか、と言い出したのは僕だ
ったのか彼女だったのか。二人ともまあ悪くない肴と強い酒とでそれなりに酔
っていた。はじめての彼女の前で格好をつけたくて、ちょっと化粧をなおして
くるねと席を立っているあいだに支払いをすませ、グラスに残った酒をちびち
びと舐めて待つ。僕の後ろからついてきた彼女が店の人の前でバッグに手をか
けた時に、もうお済みですから、と言っているのを後目にさっと外にでると、
春らしからぬ冷気にちょっとばかり酔いがひく。ごめん、次は私が奢るからも
う一軒どう。きっとどちらにとってもお望みの通りの展開。
 はじめての店だけど、とためらいながら入った店の、一番奥の大きな窓際の
止まり木に二人ならんですわると、何種類もの洋酒が丁寧に拭われた棚に並べ
られているのが目に入る。僕はサファイアベースでジントニックを、彼女には
血塗れのメアリーを。それを飲み干したあと彼女はりんごの蒸留酒を所望する。
カルバドスは置いてあるの、と訊いた僕に、バーテンダーは笑ってこたえる。
お二人の目の前の棚の2本だけですね。こちらは36年もののビンテージで、
こちらはかなり若い、どちらにしますか。彼女は甘いのがいいという。
 氷をピックでまん丸に削るのは大層技術がいるのだときいたことがある。飴
色の液体の中で揺れるたびに硬質の音をたてながら運ばれてきたグラスに彼女
が口をつける。あら、あまり美味しくないわ。僕は女王様に傅く家令のように
うやうやしく、けれどとても断定的に彼女のグラスを取り上げて僕がいただく
ことにする。まだ若くてどこか険の残ったわずかな渋みを残した甘めのカルバ
ドスを、氷の音を愉しみながら口に含み、愉悦の笑みを浮かべる。
 花のような果実のような、との曖昧なオーダーでできあがったトールグラス
のカクテルは、淡い色をしていて小さなオレンジ色のバラの花びらが載せてあ
って、その味に彼女は満足したようだ。ライチのリキュールを使ったというそ
の酒の名前をきくとオリジナルのカクテルなのだという。酔っぱらいならばこ
れ幸いと彼女にささげてカクテルに情熱を命名するのだろうけど、あいにくそ
こまで酒には酔っちゃいない。互いのグラスを交換しあったり、二の腕に肩の
体温を感じたり、互いの恋愛話をうち明けたり、二人の視線が交差したり。夜
もだいぶ更けたせいかは知らないが、酸素の不足した水槽の中の金魚のように
他の客達はいつのまにかいなくなっていた。
 はじめてのキスで舌を入れてきたからびっくりしちゃった、フレンチは私も
嫌いじゃないから良いんだけどね。そんな会話は、川沿いの部屋で魚になった
あと。目覚まし代わりの携帯の振動で目をあけて、共犯者のシンパシーで視線
を交わしたあと。それからふたり身支度をして、それぞれの待つ人の元へ帰っ
ていく。小さくて赤くてぴちぴちと泳ぐ魚のような、一見罪のなさそうな嘘を
それぞれの胸に抱えながら、二人で二台のタクシーをつかまえて全く異なる方
向へと帰っていくのだ。

(2004.04.01)
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by shinakaji | 2004-07-22 00:05 | fiction