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dr402 巨大魚と中古のライオン達

「ウォルター少年と、夏の休日(Secondhand Lions)」(以下ライオン)の映画は見ていないのだが、ノベライズ(竹書房)を読んだ。口絵の映画のシーンからとられた写真をみて感じたことは、ハリーポッターと開かずの鞄(←間違っている)を映画で見たときの感想にも似ているのだが、主人公役のオスメント少年が大きくなったなあ、というものだ。子役はいつしか大きくなって大人になる。けれど描かれた少年は、あいも変わらずすぐにも泣き出しそうで繊細だ。どうも僕の固定観念かもしれないのだが、オスメント少年には、シックスセンスにしろA.I.にしろ、眉を顰めて泣くのをこらえているような表情のイメージがある。

さて、ウォルター少年が母親につれられて、それまで存在すら知らなかったような伯父たちのところにあずけられるところからこの話ははじまる。彼にとっての母親である前に奔放に一人の女としてしか生きられない母親は、けして憎むべき性格ではないのだが、人の親としては向いていないのだろう。父親もなくそんな母親に育てられたからなのか、小さいころから転居をくりかえしてきて親友もいない彼にとって、この世に本当に大切なものは何もない。本をよみ、想像をして毎日をすごす、リアルを感じさせない少年だ。彼にとって母親は頼るべき相手でありながら頼りきることのできない諦観の対象でしかない。そんな彼が、飾り気のないちょっと風変わりな伯父たちとすごす中で、彼にとって大切なものが何であるかを見出していく物語だ。

読んだ直後に、僕は「ビッグフィッシュ」を思い出していた。ビッグフィッシュでは主人公の父、ライオンではウォルター少年にとっては父親代わりともいえる伯父たちは、ともにちょっと信じがたいほどの冒険をしてきたのだと告げ、最後のクライマックスでは、彼らの死後、その話が真実であったことを匂わせて話が終了するからだ。ビッグフィッシュの主人公は、話術の巧みな父親の「ほら話」が本当にあったことだとは思っていないが、あるきっかけで父親の話の中の真実はなにかということを探しにいく。父親のほら話を辿る映像は美しく、この映画の見所のひとつでもある。父親は死に際し、主人公の手の助けによって巨大な魚となり川の流れの中へ帰り、主人公が父親の人生をほら話も含めて受け入れたことを象徴するのだが、最後の父親の葬式の場面で、弔問客であるシャム双生児であったはずの女性が実はそれぞれ別の身体を持つ二人の美女だったことを映し出し、すべては嘘では無かったことを示唆する。ライオンではそのような手の込んだ描写は無い(これはノベライズだからかもしれない)。莫大な財産をもち、金の匂にひかれて近寄ってくる者たちを避けるうちに、まるで人嫌いなように振舞う癖のついた伯父たちは、過去に強盗をはたらいたのだとさえ噂されるのだが、ウォルター少年の打算のない姿に彼らもやがて打ち解けてゆく。一方、少年にとって、母親さえもが彼に嘘を告げるのだから、嘘などたいしたことではなかったのかもしれない。伯父たちの話す獅子奮迅の冒険譚に「信じたいことを信じればいい」と言われ、本当かどうかの判断がつかないまま彼らをまるごと受け入れる。そして映画(というよりノベライズ)にも描かれていない数年も含めて、彼にとってのリアルな生活が始まるのだ。

このノベライズを読みながらストーリーとは関係の無いところで、僕は「エイリアン」も思い出していた。まだ映画を自由に見にゆくような小遣いさえ持たなかったころであったが、映画のノベライズとしてはじめて読んだのがこの「エイリアン」である。ギーガーのデザインに負うところも大きかったのだと思うが、この映画は興行的にも成功し、いくつかの続編を生んだのであるが、そのうちの1作が、同時期に公開されたターミネーター2とエンドシーンが似ていることでも話題になったのである。けして模倣したわけではないはずなのに、結果としてはその色や形が似てしまうことがある。そんな普遍性という共通点に思いが及んだためであろう。

(2004.07.24)
by shinakaji | 2004-07-25 02:18 | review


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